MMO日記 Echo
第二次世界大戦兵器
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ティーガー
【EU、CN国ベースライセンス】



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ティーガー【α】
【ティーガー→ティーガーα】



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ティーガー【β】
【ティーガー→ティーガーα→ティーガーβ】



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ティーガー【γ】(SP)
【ティーガー→ティーガーα→ティーガーβ→ティーガーγ(SP)】

連合国が装備する重装甲の戦車に対抗するために作られた強力な重戦車。
Ⅳ号戦車より強力な重装甲の陣地突破用戦車は1938年から開発されていたが、対戦車能力を高めるために88mm高射砲を改良した戦車砲KwK36を搭載する45tの重戦車が1941年5月に発注された。その後いくつかの計画を統合し、装甲の強化を重ね、最終的に完成した車両は前面装甲が最大120mm、重量は57tに達していた。
生産は1942年から始められ、最初の部隊は8月にレニングラード近郊に投入された。9月にはこのうちの1両がソ連軍に捕獲され、徹底的に調査されている。この後ソ連ではティーガーへの対抗策として強力な自走砲や戦車の開発が行われることとなる。また1943年には少数がチュニジアに送られ、米英軍を相手に活躍している。その後も各地の戦線で活躍を続け、1944年8月まで生産されて終戦まで第一線で使用された。






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ティーガーⅡ
【M109 + BR-60】



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ティーガーⅡα
【ティーガーⅡ→ティーガーⅡα】



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ティーガーⅡβ
【ティーガーⅡ→ティーガーⅡα→ティーガーⅡβ】



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ティーガーⅡγ(SP)
【ティーガーⅡ→ティーガーⅡα→ティーガーⅡβ→ティーガーⅡγ(SP)】

ティーガーをより重武装、重装甲にした戦車。
車体のデザインなどはパンターと同様に避弾経始を取り入れたものとなり、装甲は砲塔前面で180mmになった。主砲は88mm砲だが71口径長のKwK43を装備している。初期に生産された50両の砲塔は前面が丸く避弾経始に優れていたが、下部がショット・トラップを形成していたため、それ以降の車両では砲塔前面が切り立ったものに換えられている。この新型砲塔は前面装甲が100mmから180mmに強化されていた。ティーガーⅡは1942年10月に発注され、1943年秋に試作車が完成した。
生産は1944年から行われ、1944年7月にノルマンディー、8月にポーランドで戦線に投入された。1944年8月からはティーガーに代わってフル生産が行われたが、終戦までに500両未満が完成したにすぎない。70tに近い大重量などにより機械的トラブルに悩まされ、放棄される車両も多かった。しかし防御戦では重装甲と主砲が威力を発揮し、アメリカ軍はこの戦車をキングタイガーと呼び恐れた。後にドイツでもケーニクス・ティーガーと呼ばれるようになる。






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ヤークトティガー
【ティーガーβ + ティーガーⅡβ】



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ヤークトティガーα
【ヤークトティガー→ヤークトティガーα】



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ヤークトティガーβ
【ヤークトティガー→ヤークトティガーα→ヤークトティガーβ】



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ヤークトティガーγ
【ヤークトティガー→ヤークトティガーα→ヤークトティガーβ→ヤークトティガーγ】

ティーガーⅡと並行して開発された重駆逐戦車。
性能と数で優位に立ち始めたソ連戦車を3000mの距離から撃破する目的で作られた。ティーガーⅡの車体を延長して箱型の戦闘室を設け、主砲には強力な128mm対戦車砲Pak44を搭載している。箱型戦闘室の装甲は前面で250mmに達し、この車両を正面から撃破できる火砲は存在しなかった。しかし70tを超える車体は機動性も低く、戦闘に入る前に故障により放棄される事も多かった。生産は1943年末から予定されていたが、Ⅳ号戦車の生産を優先したため遅れ、1944年末にようやく戦線に投入された。終戦までに簡易化したポルシェ式サスペンションを装備する車両と合わせて80両程度しか完成しなかった。






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KV-1
【ベースライセンス】



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KV-1α
【KV-1→KV-1α】



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KV-1β
【KV-1→KV-1α→KV-1β】



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KV-1γ
【KV-1→KV-1α→KV-1β→KV-1γ】

ソ連で多砲塔重戦車T-35の後継として1937年から開発された重戦車。
スペイン内乱の戦訓をもとに、最大90mm、主要部位で75mmの装甲を持ち、37mm対戦車砲に大して十二分な防御性能を持っていた。1939年に完成した試作車は二砲塔式のSMK、T-100と比較試験を受け、フィンランドで実戦に投入された後にKV-1として採用された。主砲は30.5口径の76.2mm砲L-11で、独ソ開戦時の全てのドイツ戦車を撃破する能力を持っていた。
しかし車体重量が45tと重いため機動性は良いとは言えず、変速器に欠陥を抱えていた事もあって、行軍から取り残されたり故障して放棄されるような事も起きた。生産と共に改良も行われたが、主に装甲の強化に向けられ、1942年型では砲塔の装甲が最大130mmに達した。しかし重量が増える事で機動性が極端に悪化したため、1942年夏には装甲を最大82mmにまで薄くして軽量化し、新型の変速器を搭載したKV-1Sが登場した。この型でようやく機動性が改善される。だが主砲は41.5口径のZIS-5へと強化されていたが中戦車のT-34と同じ砲にすぎず、また装甲も薄くなったためにKV-1Sは重戦車としての存在意義が薄れ、後に全面的に設計を改め攻撃力を強化したIS戦車が作られることとなり、生産の遅れたIS-1までのつなぎとして生産されたKV-85がシリーズ最後の生産型となった。





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KV-2
【T-55 + M113】



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KV-2α
【KV-2→KV-2α】



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KV-2β
【KV-2→KV-2α→KV-2β】



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KV-2γ
【KV-2→KV-2α→KV-2β→KV-2γ】

KV-1の車体に152mm榴弾砲を搭載した支援用重戦車。
KV-1の採用決定後にフィンランドの前線から陣地突破用の戦車を要求され、急遽開発が行われたものである。1940年1月に完成した試作車は大砲塔KVと呼ばれ、早速フィンランドで実戦に投入され威力を発揮している。重装甲の巨大な砲塔に152mm砲を搭載したため車体が傾斜していると砲塔旋回が困難になり、また重量が50tを超えたため、機動性はKV-1より悪くなった。KV-2は300両程度生産されたにすぎないが、独ソ戦では他のソ連新型戦車とともにドイツ兵を驚かせ、その巨体から怪物と呼ばれた。厚い装甲は88mm高射砲でも撃破が困難で、リトアニアのドヴィサ橋頭保の戦いでは1両のKV-2がドイツ第6装甲師団の後方を遮断し、激しい攻撃に耐えて2日間にわたって師団を足止めさせている。






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IS-3
【KV-1β+KV-2β】



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IS-3α
【IS-3→α】



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IS-3β
【IS-3 → α → β】



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IS-3γ[SP]
【IS-3 → α → β → γ】

122mm砲を搭載して1944年から大量生産が始められたIS-2を再設計し、理想的な防御力を持つ形状にした重戦車。砲塔、車体ともに極端に低いシルエットで避弾経始の極致と言える形状をしており、最大220mmの装甲と合わせて当時のドイツ重戦車の攻撃に十分耐えるものであった。車体側面上部にはドイツ軍が使用するパンツァーファウストへの対応として中空装甲を取り入れている。主砲はIS-2にも使われた122mm戦車砲D-25Tで十分な威力を持っていた。1945年3月末に制式採用され、すぐに生産が開始されたが第二次世界大戦には間に合わなかった。しかし、ベルリンで行われた戦勝記念パレードに登場して西側を驚かせ、その後の戦車開発に大きな影響を与えた。第二次世界大戦後も生産が行われ、合計2311両が作られた。1960年代にエンジンなどを更新した近代化改修型のIS-3Mが登場した。第三次中東戦争ではエジプト軍のIS-3Mがイスラエル戦車と戦っている。また少数がチェコスロバキア、ポーランド、北朝鮮に供与された。






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M3 スチュアート

【US・JP・KR国ベースライセンス】



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M3 スチュアートα
【M3スチュアート → α】



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M3 スチュアートβ
【M3スチュアート → α → β】



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M3 スチュアートγ[SP]
【M3スチュアート → α → β → γ】

第一次世界大戦後、アメリカ陸軍では戦車の運用に消極的になり、少数生産された戦車に改良を加えながら試験的に配備するといった状況が続いていた。1935年に開発されたM2軽戦車は双砲塔でM2機関銃とM1919機関銃をそれぞれ装備していた。しかしヨーロッパに不穏な空気が漂うと37mm対戦車砲を搭載したM2A4を開発し、ドイツがフランスに侵攻した事でより強力な戦車の開発を行った。
M3軽戦車はM2A4を元に強化した軽戦車で、最大装甲厚が25.4mmから38.1㎜に強化されていた。重量の増加は履帯の接地長を延ばして対応しており、後部誘導輪が大型化して地面に接地している。武装は主砲が37mm戦車砲M6で、この他に同軸機銃、砲塔後部対空機銃、車体前部機銃、車体固定機銃2丁と計5丁のM1919A4機関銃を装備していた。ただし固定機銃は効果が薄いとして後に廃止されている。M3軽戦車は1940年7月に採用され、翌3月から生産が行われた。1941年後期にはイギリスに送られた車両が北アフリカの戦いに投入されたが、ドイツ戦車の相手をするには能力が不足しており、やがてM4中戦車の供給と共に偵察任務に使用されるようになった。一方太平洋戦争の開戦直後に日本軍に捕獲された車体はすぐに再利用され、当時のどの日本軍戦車よりも優れていたため重要な戦力として活躍している。
M3軽戦車には生産時期により大きく改良が加えられている。初期型の砲塔はリベット接合で多角形のものであったが、これはすぐに溶接に改められ、次に側面板を一枚板とした馬蹄型の砲塔が登場した。車体も生産途中でリベット接合が取り入れられている。1942年に登場したM3A1はキューポラを廃止して動力旋回式になり、砲塔バスケットをつけた新型砲塔を採用しており、同じ外観の砲塔を搭載したM3と並行して生産された。1942年8月には車体構造が大きく変化したM3A3が採用された。これは1942年3月から並行して生産されていたM5軽戦車の車体形状を取り入れたもので、車体正面は傾斜した一枚板となり防御力が大きく向上している。砲塔は大型化し、後部に無線機を搭載している。M3A3はアメリカでは使用せず、海外への供与にまわされている。M5軽戦車は生産数の増加によるエンジンの供給不足に対応した型で、自動車用エンジン2基を連結して搭載している。1942年2月に採用された車体はM3A1と同じ馬蹄型砲塔を搭載していたが、1942年9月のM5A1はM3A3と同型の砲塔を搭載していた。M5A1はアメリカ陸軍の偵察車両として大戦後期に活躍している。M3とM5合わせて22744両が生産され、アメリカ、イギリス連邦軍で使用されたほかソ連、自由フランス、中華民国にも供与された。戦後は中南米などにも供与され、パラグアイでは現在も軍籍に残っているともいわれる。なおスチュアートはイギリスで付けられた愛称である。







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M4 シャーマン
【チーフテン + 9K51グラード】




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M4 シャーマンα
【M4シャーマン → α】



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M4 シャーマンβ
【M4シャーマン → α → β】



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M4 シャーマンγ
【M4シャーマン → α → β → γ】

フランス戦の後、アメリカ陸軍は訓練用に装備していたM2中戦車を改良し、車体に75mm砲を搭載したM3中戦車を生産したが、本命とされた中戦車はあくまで旋回砲塔に75mm戦車砲を搭載するM4であった。
M4中戦車の車体はM3中戦車の構造を引き継ぎ、車体前部の設計を大きく変更して大直径のターレットリングを設けた。航空機の星型エンジンを搭載する事を前提に設計されたため、車体の背が高く敵に発見されやすいが、一方では内部スペースに余裕があり、洗練されたレイアウトで乗員の疲労を抑えるなどの利点もあった。
アメリカ国内の発展した自動車産業のノウハウを生かし、高い整備性や操縦性、故障率の低さなどは他国の車両を寄せ付けない。車体上部は溶接と一体鋳造の二つの形式が用意され大規模な鋳造設備の無い工場でも生産が可能である。一体鋳造車体はM4A1にのみ使用された。車体の他の部分はリベット接合から溶接に変更された。生産後期には乗員ハッチが大型化するなどの改良が加えられ、溶接型車体はそれまで乗員スペースが張り出していた前面装甲板を一枚板として防御力を高めたものに変えられている。M4の一部とM4A6では車体上部の前部を鋳造パーツにしたものが使われている。M4中戦車はM3中戦車と同様に搭載するエンジンの形式によってサブタイプが分けられ、航空機用星型エンジンを搭載した車体は溶接のM4と鋳造のM4A1、GM製ディーゼルエンジンはM4A2、フォード製ガソリンエンジンはM4A3、クライスラー製エンジンはM4A4として分類された。いずれも1942年から生産が始められた。キャタピラー製ディーゼルエンジンのM4A6は1943年後期に作られ、他の形式より評価が高かったが、すでにM4A3が主力と位置付けられていたため75両で生産終了、全て訓練に用いられた。
M4A5はカナダ製のラム巡航戦車に与えられた形式名である。カナダではラムの生産終了後にM4A1の初期型にわずかな改良を加えたグリズリー巡航戦車を少数生産しているが、ラムと合わせてほとんどが訓練に用いられた。武装は75mm戦車砲M3で、3名用の鋳造砲塔に装備されている。砲塔や砲架は生産中に改良が加えられ、防御力や視察能力が改善している。強力なドイツ戦車に対抗するために76.2mm砲を装備した型も作られ、これは大型のT23砲塔を使用している。また75mm砲塔に105mm榴弾砲を装備した支援型も作られた。
M4中戦車は49234両が作られ、英連邦軍の他ソ連や中華民国にも供与されて大戦中の連合軍の主力戦車となった。シャーマンという愛称はイギリスに送られた際につけられたもので、後にはアメリカでも使われるようになる。M4中戦車には多数の派生型が作られたほか自走砲の車体としても使われ、イギリスでは強力な17ポンド砲を搭載したファイアフライが作られた。アメリカ軍は朝鮮戦争でもM4を使用し、その後は西側各国などへの供給にまわされ、日本の陸上自衛隊でもM4A3E8を使用していた。1948年に建国したイスラエルは中古の車体をかきあつめて中東戦争に投入、後に独自の改造を施し高威力の砲を搭載したスーパーシャーマンが活躍している。






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M26 パーシング

1942年にM4中戦車の後継として開発が始められたT20中戦車から発展した、第二次世界大戦のアメリカ戦車の集大成と言える戦車である。
T20シリーズは三社によってT20、T22、T23の三種の車両が作られ、武装や変速器、サスペンションなどの試験に用いられた。これらの試作車両で得られた成果はM4中戦車の改良に反映されており、T23で用いられた76㎜大型砲塔はほぼそのままM4中戦車に搭載された。しかしT20シリーズの採用は見送られ、90mm砲を搭載したT25中戦車の試作車が1944年頃に合計50両作られる事になった。このうちの10両はT25より装甲が厚く、T26と命名されている。T26は重量の増加により履帯巾が広げられ、トーションバーサスペンションもT25より強化された。T25、T26ともに重量が過大となり設計段階で変速器を電気式からトルクマチック式に変更しており、試作車はT25E1、T26E1と名付けられた。1944年6月にはT26E1は重戦車へと分類を改められたが、強力なドイツ重戦車に対抗するために装甲の厚いT26が本命とされ、1944年11月には試験の結果を反映し改良を加えたT26E3が20両生産された。この20両のT26E3はただちにヨーロッパへ送られて実戦に参加したが、これと並行して生産と試験が行われ、1945年3月にM26 パーシング重戦車として制式化された。
完成した車体は続々と戦地に送られ、1945年5月までに約300両がヨーロッパに届いている。太平洋戦争では1945年6月ごろに沖縄に到着しており、日本本土上陸作戦に使用される予定であった。生産は戦後まで続けられ、終戦までに約1400両、合計で2215両が作られた。派生型として長砲身の90㎜砲を装備したスーパーパーシングと呼ばれる車体が数種作られ、最初に作られた1両はヨーロッパで実験的に実戦に投入された。この他に支援用に105mm榴弾砲を搭載したT26E2がM45重戦車として制式化されて1945年7月から少数作られている。またT26E5などの装甲強化型が試作された。M26は戦後もアメリカ陸軍の主力として配備が続けられ、1946年5月に再び中戦車へと分類を改められている。1948年には主砲を改良したM26A1が登場し、1950年にはM46 ジェネラル・パットン中戦車が登場している。M46はエンジンと変速器をより強力な物に交換し、各部を改良したもので、新規の生産と共にM26からの改修も行われた。1950年に勃発した朝鮮戦争ではM26、M45と共に使用され、北朝鮮と中国のT-34-85相手に活躍している。






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マチルダⅡ
【EU、CN、JP国ベースライセンス】



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マチルダⅡα
【マチルダⅡ→α】



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マチルダⅡβ
【マチルダⅡ→α→β】



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マチルダⅡγ
【マチルダⅡ→α→β→γ】

第二次大戦前にイギリスで歩兵支援用に考案された歩兵戦車の二番目の車両。
歩兵戦車は機動性を重視した巡航戦車に比べ装甲が厚く、歩兵と共に行動する程度の速度しか出なかった。最初の歩兵戦車マチルダは1934年に開発が始められたが、価格を下げるために車体を小型にした結果、武装が機関銃一丁しか無く戦車としては非力な事が予想され、これが完成するより前の1936年には次の歩兵戦車が要求された。歩兵戦車Mk.Ⅱはマチルダの名前を受け継ぎマチルダⅡと呼ばれ、口径40mmの2ポンド対戦車砲と同軸機銃を装備していた。装甲厚は最大78mmで、足回りも大きな装甲スカートで覆われて、当時の主流であった37mm級の対戦車砲にほぼ全周で耐える程の重装甲を誇った。しかし重い砲塔の旋回装置が故障しやすい、装甲スカートの工作が難しいなどの欠点もあった。
マチルダⅡは1939年から配備され、ドイツ軍のフランス侵攻時やアフリカ戦線では厚い装甲で対戦車砲弾をはじき返し、ドイツ兵を驚かせている。しかしドイツ軍が88mm高射砲を対戦車用に使用し、またⅣ号戦車が長砲身の75mm砲を装備すると装甲の優位が失われた。武装の2ポンド対戦車砲も榴弾を用意していなかったため有効な陣地攻撃が行えず、砲塔が小さいために武装強化の余地が無かったので、エル・アラメイン戦後はチャーチル戦車やアメリカ製戦車に取って代わられた。ソ連にもレンドリースで送られたが評判は悪く、歩兵戦車Mk.Ⅲバレンタインが主に使用された。オーストラリア軍は1943年にニューギニアにマチルダⅡを投入し、有効な対戦車兵器を持たなかった日本軍を相手に高い戦果を挙げている。オーストラリアでは火炎放射器を搭載したマチルダ・フロッグや対潜用の臼砲を流用した陣地攻撃用のマチルダ・ヘッジホッグなどが独自に開発された。マチルダⅡは1943年までに合計2987両が生産された。






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チャーチル
【M110 + V-75】



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チャーチルα
【無印→α】



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チャーチルβ
【無印→α→β】



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チャーチルγ
【無印→α→β→γ】

歩兵戦車の四番目の車両。第一次世界大戦と同様の塹壕戦を想定して試作されていた重戦車A20を元に小型化した戦車で、1940年6月にイギリス軍がダンケルクから撤退、装備を多数遺棄した穴を埋めるため急遽開発、1940年11月に採用された。この戦車には計画を後押しした当時の首相チャーチルの名前が与えられた。しかし極初期の生産車両は通常では考えられないレベルの機械的トラブルを抱えており、実戦に投入されたのは1942年8月のディエップ上陸作戦からであった。この時30両のチャーチルが投入されたが、作戦のまずさと海岸のコンクリート障壁に進軍を阻まれた事により全てを喪失している。しかし1943年からチュニジアに投入され、厚い装甲を生かして活躍する事もあった。また極めて高い不整地走破能力によって地の利を得ていたドイツ兵の裏をかいて目の前に出現し、慌てさせたりもしている。武装はチャーチルMk.Ⅱまでが砲塔に2ポンド砲を装備し、その後6ポンド砲からアメリカ製の砲弾が使用できる75mm砲へと強化された。最初のチャーチルMk.Ⅰは車体機銃の代わりに3インチ榴弾砲を装備して支援戦車を兼ねていたが、後に95mm榴弾砲を装備する専用の支援型が作られた。1943年末には設計を全面的に改め、装甲が最大152mmに強化されたチャーチルMk.Ⅶが登場した。この型はノルマンディー上陸作戦から登場し、朝鮮戦争まで使用された。Mk.Ⅶは車体機銃の代わりに火炎放射器を取り付けて燃料トレーラーを牽引する事でクロコダイル火炎放射戦車へと簡単に変換できる。ノルマンディーではディエップでの戦訓から上陸支援用にチャーチルを元にした工兵用車両が多数つくられ活躍している。代表的な物がAVREで、障害物破壊用に290mmペタード迫撃砲を装備する他、車体に様々な機材を取り付ける事が出来る。チャーチルはレンドリースでソ連にも送られ、KV-1に匹敵する重戦車として活躍しているが、その名前が災いして活躍が知られたのは冷戦終結後の事であった。チャーチルは合計で5640両が生産された。






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センチュリオン
【マチルダⅡβ + チャーチルβ】



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センチュリオンα
【無印→α】



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センチュリオンβ
【無印→α→β】



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センチュリオンγ
【無印→α→β→γ】

巡航戦車と歩兵戦車に分かれていたイギリス戦車を統合し、ドイツのティーガー重戦車に対抗できる汎用戦車として開発された。ミーティアエンジンを搭載する巡航戦車から発展したものだが、サスペンションはそれまでのクリスティー式からホルストマン式に変更された。それまでの戦車はイギリス国内の鉄道輸送により車幅が制限されていたが、この制限を撤廃し、砲塔を大型化して17ポンド砲を搭載する事が出来た。車体前面装甲は傾斜した一枚板となり、弱点となる前方機銃は廃止されている。1945年に増加試作車6両が完成し、5月にはベルギーで実戦テストを行うために配備されたが、輸送中にドイツが降伏したため交戦はしていない。しかしテストは継続され、改良を加えた車体がセンチュリオンMk.Ⅰとして1946年から量産された。センチュリオンは武装を強化する余裕があったため改良が続けられ、1948年には20ポンド砲を搭載したMk.Ⅲが完成し、1948年から大量に生産された。Mk.Ⅲは朝鮮戦争に送られ、参戦した戦車の中で最高と言う評価を受けている。1959年には105mm戦車砲L7が登場し、これを搭載するMk.10が1960年から生産された他、既存の車両にL7を搭載する改造も行われた。イギリス軍ではセンチュリオンを1970年代末まで使用している。センチュリオンは広く輸出され、中東戦争など各地の紛争で活躍した。輸出先でも独自の改良が行われ、一部の国では現在も使用されている。センチュリオンは合計約4500両生産された。






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九七式中戦車 チハ
【ベースライセンス】



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九七式中戦車 チハα
【無印→α】



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九七式中戦車 チハβ
【無印→α→β】



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九七式中戦車 チハγ
【無印→α→β→γ】

第二次世界大戦で日本が主力として用いた中戦車。八九式中戦車に代わる中戦車として1936年から開発が開始された。試作車は二種類作られ競争試作となり、相手となったチニ車は九五式軽戦車(ハ号)を大型化したような車両で、砲塔は一人用で装甲が最大20mm、チハ車より小型軽量で安価なものであった。部隊側は性能が優れるチハ車、軍部は予算枠の中で数を揃えるためにチニ車を推していたが、日中戦争の開戦により予算の制約が無くなり1937年にチハ車が制式化された。九七式中戦車は八九式中戦車乙型や九五式軽戦車の空冷式ディーゼルエンジンを6気筒として出力を増加した物を採用し、サスペンションは日本独自のシーソー式であった。主砲は八九式中戦車の物を改良した口径57mmの九七式戦車砲で、初速は低く対戦車戦闘には向いていない。装甲は最大25mmで、37mm級の対戦車砲の近接射撃に耐える事を目標としていた。1938年から生産開始、1939年のノモンハン事件には八九式中戦車や九五式軽戦車と共に配備されて間もない4両が投入された。
実戦に投入された九七式中戦車の25mmの装甲はソ連軍の45mm対戦車砲や中国軍の装備する37mm対戦車砲に容易に貫通されたが、対策が取られる事も無く太平洋戦争の開戦を迎える。アメリカ軍が装備していた軽戦車M3スチュアートは走・攻・防のバランスのとれた車両で、あらゆる面で当時の日本戦車より優れたものであった。特に日本戦車の装備する砲ではM3スチュアートをまともに破壊する事が出来ず、新砲塔チハの試作車両が1942年4月、フィリピン攻略戦の末期に急遽投入されている。これはソ連のBT戦車に似た砲塔に口径47mmの一式戦車砲を搭載したもので、対戦車戦闘を重視した砲となっている。新砲塔チハの登場によりM3スチュアートには一応対抗できるようになったが、当時すでにヨーロッパでは75mm級の砲が主流となり始めた時期で、新砲塔チハの量産が進み戦場に届くころにはアメリカ軍は中戦車M4シャーマンを投入していた。結局終戦までチハ車より強力な戦車が前線に配備される事は無く、日本軍は連合軍を相手にチハ車で絶望的な戦いを行った。九七式中戦車は新砲塔チハと合わせて2123両が1943年までに作られた。戦後は中国軍でも一部が使用されている。サイパンから持ち帰った車両など各地に現存車両が残り、また南方などでは残骸が残されている。






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三式中戦車 チヌ
【ホーク改 + チャレンジャー2】



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三式中戦車 チヌα
【無印→α】




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三式中戦車 チヌβ
【無印→α→β】



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三式中戦車 チヌγ
【無印→α→β→γ】

第二次世界大戦で日本が主力として用いた中戦車。八九式中戦車に代わる中戦車として1936年から開発が開始された。試作車は二種類作られ競争試作となり、相手となったチニ車は九五式軽戦車(ハ号)を大型化したような車両で、砲塔は一人用で装甲が最大20mm、チハ車より小型軽量で安価なものであった。部隊側は性能が優れるチハ車、軍部は予算枠の中で数を揃えるためにチニ車を推していたが、日中戦争の開戦により予算の制約が無くなり1937年にチハ車が制式化された。九七式中戦車は八九式中戦車乙型や九五式軽戦車の空冷式ディーゼルエンジンを6気筒として出力を増加した物を採用し、サスペンションは日本独自のシーソー式であった。主砲は八九式中戦車の物を改良した口径57mmの九七式戦車砲で、初速は低く対戦車戦闘には向いていない。装甲は最大25mmで、37mm級の対戦車砲の近接射撃に耐える事を目標としていた。
1938年から生産開始、1939年のノモンハン事件には八九式中戦車や九五式軽戦車と共に配備されて間もない4両が投入された。実戦に投入された九七式中戦車の25mmの装甲はソ連軍の45mm対戦車砲や中国軍の装備する37mm対戦車砲に容易に貫通されたが、対策が取られる事も無く太平洋戦争の開戦を迎える。アメリカ軍が装備していた軽戦車M3スチュアートは走・攻・防のバランスのとれた車両で、あらゆる面で当時の日本戦車より優れたものであった。特に日本戦車の装備する砲ではM3スチュアートをまともに破壊する事が出来ず、新砲塔チハの試作車両が1942年4月、フィリピン攻略戦の末期に急遽投入されている。これはソ連のBT戦車に似た砲塔に口径47mmの一式戦車砲を搭載したもので、対戦車戦闘を重視した砲となっている。新砲塔チハの登場によりM3スチュアートには一応対抗できるようになったが、当時すでにヨーロッパでは75mm級の砲が主流となり始めた時期で、新砲塔チハの量産が進み戦場に届くころにはアメリカ軍は中戦車M4シャーマンを投入していた。結局終戦までチハ車より強力な戦車が前線に配備される事は無く、日本軍は連合軍を相手にチハ車で絶望的な戦いを行った。九七式中戦車は新砲塔チハと合わせて2123両が1943年までに作られた。戦後は中国軍でも一部が使用されている。サイパンから持ち帰った車両など各地に現存車両が残り、また南方などでは残骸が残されている。






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五式中戦車 チリ
【チハβ + チヌβ】



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五式中戦車 チリα
【無印→α】



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五式中戦車 チリβ
【無印→α→β】



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五式中戦車 チリγ
【無印→α→β→γ】

1943年、四式中戦車と同時に計画された戦車。チリ車とも呼ばれる。他国の新型戦車に対抗できるように大型化したもので、主砲は75mm砲を予定していた。この時の計画では四式中戦車には57mm砲を搭載する予定であった。主砲を搭載していない試作車は1945年3月にはほぼ完成し、走行試験などを行っていた。五式中戦車の装甲は最大75mmで日本の戦車としては厚いが、他国の戦車と比べると見劣りのするものであった。サスペンションはトーションバー式の採用も考えられていたが、日本独自のトーションバーの開発中に担当者が事故死してしまったため開発は頓挫し、シーソー式を採用している。車体には同軸機銃を持つ37mm戦車砲が前面に装備されているが、用途は判然としない。砲塔は大型で、後部バスルに弾庫が備えられていた。砲塔の旋回はモーターを使用し、旋回時の作業を阻害しないために砲塔バスケットが日本の戦車として初めて取り付けられた。搭載する予定の五式戦車砲はボフォース社の1929年型75mm高射砲をコピーした四式高射砲を元に作られたもので、威力の増加により重くなった砲弾でも発射速度を保つために自動装填装置を取り付けてあった。しかし自動装填装置の開発に手間取り、また三式中戦車と四式中戦車が五式戦車砲を装備する事で五式中戦車の意義も無くなり、五式中戦車の計画はほぼ停止され、一両しか作られなかった試作車も主砲を搭載しない状態で終戦を迎えた。試作車はアメリカ軍に接収されたが、その後どうなったかは不明である。






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SU-100
【RS、CN国ベースライセンス】



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SU-100α
【無印→α】



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SU-100β
【無印→α→β】



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SU-100γ
【無印→γ】

1943年頭にドイツが送り込んだ重装甲の戦車ティーガーに対抗するために、T-34の車体を利用して固定戦闘室に強力な85mm砲を搭載した戦車駆逐車SU-85が開発された。SU-85は固定戦闘室のため製作コストが低く、T-34より強力な砲を搭載できる利点があったが、1943年末にT-34-85が開発された事で火力の優位が無くなり、SU-85の武装を100mm砲へと強化する事になった。開発は1944年2月に開始され、SU-85の戦闘室を手直ししてT-34-85と同型のキューポラを設け、ベンチレーターを追加した戦闘室に海軍砲B-34から発展したD-10を搭載した。主砲のD-10は1000mで185mmの装甲を貫徹可能で、対装甲威力ではIS戦車に搭載された122mm砲を上回る強力な砲であった。D-10は戦後T-54の主砲としても採用されている。しかし新規に開発されたD-10の供給が追いつかなかったため、SU-100の設計はSU-85の後期生産型SU-85Mに流用された。この車両は砲と防盾以外の形状がSU-100と同じになっており、少数が生産された。SU-100は1944年9月から量産が始められ、1945年1月から戦線に投入された。この頃ドイツ戦車の抵抗は散発的なものとなっており、SU-100は主にトーチカの破壊などに用いられた。SU-100は戦後も広く使われ、ソ連では1970年代まで現役にあった。現在も保管された車両がパレードに参加している。またチェコスロバキアでライセンス生産された車両も含めてワルシャワ条約機構やアラブ諸国など東側諸国に供給され、中東戦争ではイスラエル戦車と交戦している。






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SU-152
【MLRS + 2S3アカーツィア】



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SU-152α
【無印→α】



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SU-152β
【無印→α→β】



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SU-152γ
【無印→α→β→γ】

1942年9月にレニングラード近郊で鹵獲されたティーガー重戦車はそれまでのドイツ戦車より遥かに強力で、最大100mmの装甲は当時としては強力だったT-34やKV-1の76mm砲でも接近しなければ貫徹が不可能であった。これに危機感を抱いたソ連は強力な砲を備えた戦車や自走砲を必要とし急遽開発されたのがSU-152である。KV重戦車のコンポーネントを使用した試作車両は多数設計され、戦車駆逐車としては76mm戦車砲と45mm戦車砲2門、もしくは76mm砲2門を装備するKV-7など固定戦闘室を持つ車両が試作されていたが、いずれもスターリンの不評を買っていた。その後武装に単独の152mm砲を装備する車両が検討されていた事もあって、SU-152の設計は開発開始からわずか25日でまとめられ、1943年2月には試験が完了して量産が開始された。ベースになった車体は装甲を削りトランスミッションを改良したKV-1Sで、低いシルエットの固定戦闘室は巨大な152mm砲ML-20Sを納めるために操縦席の位置にまで張り出していた。SU-152は1943年5月に実戦に投入され、7月のクルスク戦でティーガーやパンターなどのドイツ戦車に対して威力を発揮し、ズヴェロボイ(猛獣殺し)と呼ばれた。SU-152は1943年末までに671両生産され、その後はISU-152に生産が切り替えられた。






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ISU-152
【SU-100β + SU-152β】



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ISU-152α
【無印→α】



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ISU-152β
【無印→α→β】



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ISU-152γ
【無印→α→β→γ】

KV重戦車をベースとした自走砲SU-152の後継となる車両。開発はIS-85重戦車(後のIS-1)の開発と並行して行われた。SU-152と同様に箱型の固定戦闘室に152mm砲ML-20Sを搭載しており、履帯の位置が低いため戦闘室の高さが高くなったように見えるが、全高はSU-152とほぼ同じである。装甲はSU-152より若干強化されている。ISU-152は1943年9月に制式化され、1943年末にIS戦車の生産とほぼ同時に生産が開始された。ISU-152のバリエーションとして122mm砲A-19を搭載したISU-122が並行して生産された。A-19はML-20Sと同じ砲架を使用しており、IS-2の主砲D-25の元となった砲である。ISU-122は152mm砲の生産の遅れでISU-152の需要を満たせず、砲身の生産に余裕があったA-19を搭載して供給したものである。また長砲身の152mm砲を搭載したISU-152-BMや130mm砲を搭載したISU-130、IS-3重戦車の車体を用いて全体に避弾経始を取り入れたISU-152 1945年型などが試作されたが、戦争終結が見えていたためいずれも量産はされていない。ISU-152は戦後も使用され、1950年代には二度の近代化が行われた。これらの車両はSU-100と同様に東側諸国にも供給され、中東戦争でイスラエル戦車と交戦している。ISU-152はおよそ3200両、ISU-122はおよそ1700両生産された。






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零戦 二一型
【JP、RS国ベースライセンス】



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零戦 二一型【α】
【二一型→二一型α】



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零戦 二一型【β】
【二一型→二一型α→二一型β】



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零戦 二一型【γ】(SP)
【二一型→二一型α→二一型β→二一型γ(SP)】

零式艦上戦闘機は第二次大戦初期に大活躍した大日本帝国海軍の主力戦闘機。
重量と空気抵抗の徹底した削減により、優れた空戦能力と長大な航続性能を有していた。しかし、防弾装備の欠如が後にその弱点となる。二一型は昭和14年から生産された一一型の翼端を空母搭載用に各500mm折りたためるようにした改良型。三菱重工業で昭和15年11月~昭和17年6月までに740機、中島飛行機で昭和16年11月~昭和19年4月までに2821機生産された。






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零戦三二型
【F-16ファルコン(制空)+MiG21フィッシュベット】



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零戦三二型【α】
【三二型→三二型α】



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零戦三二型【β】
【三二型→三二型α→三二型β】



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零戦三二型【γ】
【三二型→三二型α→三二型β→三二型γ】

零式艦上戦闘機は第二次大戦初期に大活躍した大日本帝国海軍の主力戦闘機。
重量と空気抵抗の徹底した削減により、優れた空戦能力と長大な航続性能を有していた。三二型は大規模な改修が行われた性能向上型で、速度と上昇性能を向上するためにニ一型の翼端を折りたたみ部分で切り詰め、発動機を二速過給機つきの栄ニ一型に換装してある。しかし機体内燃料タンクの容量が減った事で航続距離が短くなり、初期にはエンジントラブルにも悩まされた。






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零戦 五二型
【二一型β + 三二型β】



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零戦 五二型α
【五二型→五二型α】



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零戦 五二型β
【五二型→五二型α→五二型β】



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零戦 五二型γ
【五二型→五二型α→五二型β→五二型γ】

零式艦上戦闘機は第二次大戦初期に大活躍した大日本帝国海軍の主力戦闘機である。
五二型は大戦後半の主力となった型。三二型の航続距離を延ばすために翼端を再び延長した二二型から発展したもので、主翼は短くなっているが翼端は丸く整形されている。栄二一型エンジンには推力式の排気管が付けられ、最高速度と上昇力が向上している。生存性を向上するために翼内燃料タンクには自動消火装置が取り付けられ、後期の型は風防の一部が防弾ガラスとなった。昭和18年8月から約6000機生産された。






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Ta152
【ベースライセンス】



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Ta152α
【Ta152→Ta152α】



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Ta152β
【Ta152→Ta152α→Ta152β】



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Ta152γ
【Ta152→Ta152α→Ta152β→Ta152γ】

大戦末期に登場した高性能レシプロ戦闘機。
Bf109と並びドイツ軍の戦闘機として活躍したFw190のD型をベースに設計され、高高度での能力を中心に性能向上を図っている。高高度戦闘型のH型は1945年1月から配備されたが、すでにジェット戦闘機のMe262が使用されていたため低高度での防空任務につき、Me262の離着陸時の護衛を行っていた。終戦までに完成した機体は試作機も含めて100機前後で、H型の他に重戦闘機型のC型が試作された。また偵察機なども計画されていた。






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Bf109
【F-4 + Su-17】



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Bf109α
【Bf109→Bf109α】



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Bf109β
【Bf109→Bf109α→Bf109β】



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Bf109γ
【Bf109→Bf109α→Bf109β→Bf109γ】

第二次世界大戦におけるドイツの主力戦闘機。
1934年から開発が開始され、スペイン内乱に投入されたのをはじめとして大戦の全期間にわたって活躍した。ドイツ空軍には1937年のB型から配備され、本格的な生産はE型から行われた。
1939年に配備が始められたE型はDB601エンジンを搭載し、ラジエーターを主翼下面に移動した型で、バトル・オブ・ブリテンでイギリス空軍のスピットファイアと死闘を繰り広げた。1940年末には空力特性を改善したF型の生産が開始され、独ソ戦開始時には主力として配備されていた。F型ではプロペラ軸に20mmモーターカノンが装備されている。1942年からはDB605エンジンを搭載したG型が配備され、最も多数が製造された型となった。
各型には小改良や戦場に合わせた変更を行ったサブタイプが多数存在しており、他に高高度戦闘型のH型や未成空母グラーフ・ツェッペリンに搭載する予定だった艦載用のT型が作られた。最終生産型となったK型はサブタイプをまとめて整理した型である。終戦までに合計約33000機生産され、ドイツ以外の友好国へも供与された。一部の国は戦後も使用を続け、スペインとチェコスロバキアではエンジンを変更した独自の機体の生産を行っている。






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He162 サラマンダー
【Ta152β+Bf109β】



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He162 サラマンダーα
【He162 → α】



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He162 サラマンダーβ
【He162 → α → β】



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He162 サラマンダーγ[SP]
【He162 → α → β → γ】

敗戦濃厚なドイツ軍が開発したジェット戦闘機。
1944年9月に出された仕様は金属部品を節約し、容易に組み立てる事が可能で操縦も容易と言うものであった。ハインケル社が独自設計案を元に完成させた機体はジェットエンジンを背負い式に搭載し、機体の一部は合板で作られていた。重量は計画より大きくなったが機体が小型のため最大速度は高度6000mで840km/h、緊急時には905km/hを出す事が出来た。しかし航続距離は短く、機体の安定性にも問題があり操縦は難しい物となった。試作機は1944年12月に初飛行を行い、1945年には量産機が配備された。しかし登場した時期が遅く、目立った戦果は挙げていない。終戦までに約320機が完成し、600機が組み立て途中であった。






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ハリケーン
【EU・RS・CN国ベースライセンス】




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ハリケーンα
【ハリケーン→ハリケーンα】



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ハリケーンβ
【ハリケーン→ハリケーンα→ハリケーンβ】



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ハリケーンγ[SP]
【ハリケーン→ハリケーンα→ハリケーンβ→ハリケーンγ】

イギリス空軍最初の単葉戦闘機である。
後にマーリンとして有名になるロールスロイス製の新型エンジンを搭載し、高い運動性を持っていた。武装は7.7mm機銃だが主翼内に合計8門装備し、弾数の多さで評価は高い。機体は鋼管と木材や帆布を使用した旧来の構造を使用しており、速度面で不利であったが簡素であるがゆえ被弾時の生存性が高いなどの利点もあった。試作機は1935年11月に初飛行を行い、1937年末からMk.Ⅰの配備が始められた。スピットファイアの生産が遅れていたのに比べハリケーンの生産は順調で、第二次世界大戦の開戦時には広く配備が行われており、ナチス・ドイツのフランス侵攻やバトル・オブ・ブリテン、マルタ島防衛などに投入され活躍している。1941年からはスピットファイアの生産が本格的となり、ハリケーンは本国防衛以外の任務にも就くようになる。北アフリカでは20㎜機関砲と爆弾を搭載して地上攻撃にも使用されるようになり、弾数15発の40mm機関砲を搭載したMk.ⅡDも作られて戦車攻撃に用いられた。1943年のMk.ⅡEは後にMk.Ⅳと改称され、ロケット弾や40mm機関砲を含めた各種の武装が可能であった。この他に武装商船の護衛用にカタパルトに対応したシーハリケーンMk.ⅠAや着艦設備をつけたシーハリケーンMk.ⅠBなどの艦載型への改造も行われた。また夜間戦闘や戦術偵察用の機体も作られた。ハリケーンの生産は1944年まで続けられ、カナダで作られた1400機を含め14533機が製造された。イギリス連邦軍以外での使用も行われ、戦争直前にベルギーやポーランドが購入しているが、ポーランド向けの機体は占領前に届かず、トルコへと送られた。1940年にはソ連が侵攻したフィンランドへの救援用に送られ、後にソ連へのレンドリースも行われた。戦後はアルゼンチンやエジプトなどへも売却された。






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スピットファイア
【Mi-17ヒップH + UH-1 イロコイ】



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スピットファイアα
【スピットファイア→スピットファイアα】



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スピットファイアβ
【スピットファイア→スピットファイアα→スピットファイアβ】



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スピットファイアγ
【スピットファイア→スピットファイアα→スピットファイアβ→スピットファイアγ】

イギリスを救った戦闘機として知られるイギリスの主力戦闘機。
エアレーサーの設計を受け継いだ洗練された形状で、強力なマーリンエンジンを搭載していた。7.7mm機銃を片側に4門装備する特徴的な形状の楕円翼形を採用していたが、Mk.Ⅴ以降の型ではイスパノ20㎜機関砲やブローニング12.7mm機関銃を装備する翼や高度により翼端形状を変更したものも使用された。コクピットは狭く、実戦配備後に風防が膨らみを持たせた物となり、結果視界が向上している。
試作機は1936年3月に初飛行を行い、1938年8月からMk.Ⅰの実戦配備が行われた。Mk.Ⅰのエンジンはロールスロイス・マーリンⅢが標準で最高速度は586km/hを記録した。しかし生産が波に乗らず開戦時には少数しか配備されていない事もあり、高速性能を生かした偵察任務には1939年11月から使用されたが、戦闘に使用されたのはバトル・オブ・ブリテンからであった。バトル・オブ・ブリテンではハリケーンと共に防空任務に就き、優れた旋回性能を生かして上昇力、急降下速度に勝るBf109と互角の戦いを繰り広げてイギリスの空を守り抜いた。バトル・オブ・ブリテンが終了する頃には生産数がハリケーンを上回り、名実ともにイギリスの主力戦闘機となった。
ドイツ機の改良に対抗するようにスピットファイアの改良も行われ、多数の形式が作られた。1940年秋に登場したBf109Fに対抗するために、過給器付きのマーリン40/50系を搭載して最高速度が598km/hとなったMk.Ⅴが1万機以上発注され、1941年2月から生産された。生産途中で新型へと振りかえられたためにMk.Ⅴは6595機で生産終了したが、各形式中最大の機数となっている。1941年9月にはFw190が登場して脅威となり、Mk.Ⅴの機体に2段2速過給器付きのマーリン60を搭載したMk.Ⅸを急遽開発した。Mk.Ⅸの最高速度は650km/hを超えたため1942年6月以降の主力となり、Mk.Ⅴからの改造も行われ合計5674機が完成した。Mk.Ⅸの生産後期の型は水滴型風防を装備して機体形状を変化させている。この他にマーリンエンジン搭載型として高高度型のMk.ⅥとMk.Ⅶ、さらに与圧キャビンを備えたMk.Ⅷやアメリカ製のパッカード・マーリンを搭載したMk.XVIが作られた。
マーリンより強力なグリフォンエンジンを搭載した型の開発も行われたが、グリフォンの実用化が遅れたため大戦後半まで完成せず、1942年10月にようやくMk.XIIの生産が行われた。その後Mk.XIVとMk.XVIIIが生産されるが航続距離が短いため侵攻作戦には向かず、主にV1飛行爆弾の迎撃に用いられている。1943年9月にはグリフォン搭載機の決定版として主翼や機体構造を一新したMk.21の原型機が完成するが、生産は遅れ1945年1月にようやく配備され、実戦には間に合っていない。その後Mk.22/24が開発されたが、ジェット戦闘機の登場もあり1948年までに少数しか生産されていない。
スピットファイアは艦載機としても用いられ、シーファイアという名称が与えられた。シーファイアは甲板上での取り扱いが難しく、事故による喪失も多かったが多数が使用された。朝鮮戦争ではジェット機の配備が遅れていたため、空母トライアンフに配備されていたMk.47が地上支援などに参加している。スピットファイアは合計20351機が生産され、イギリス連邦軍以外でも広く使用された。戦後も中東戦争などに登場している。






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モスキート
【ハリケーン + スピットファイア】



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モスキートα



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モスキートβ



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モスキートγ

デ・ハビランド社が開発した全木製の双発複座爆撃機。アルミニウムなどの戦略資材の不足を見越して木材を使用し、敵の攻撃を避けるために速度のみを重視した結果として防御火器を搭載していない。1939年に設計案がまとめられたこの航空機にイギリス空軍は難色を示し、1940年に爆撃機型と重戦闘機型合計50機の発注が行われたに留まっていた。1940年11月に試作機が完成、初飛行を行うと素晴らしい性能を発揮し、当時のスピットファイアを遥かに上回る最高速度639km/hを記録した。これにより追加発注が行われ、多数の派生型が作られることとなる。1941年7月に偵察機型PR MkⅠが実戦配備され、1942年春には爆撃機型と夜間戦闘機型が配備された。爆撃機型のB MkⅣは1942年5月のケルン昼間爆撃を皮きりに9月にはオスロのゲシュタポ本部爆撃、1943年1月にはベルリン昼間爆撃などを行った。一部の機体はオーボエ全天候爆撃航法装置を搭載し、重爆撃機隊の先導や4000ポンド爆弾を搭載して夜間爆撃を行った。夜間戦闘機型NF MkⅡはレーダーと20㎜機関砲4門、7.7mm機銃4門を装備して迎撃や夜間奇襲攻撃に投入された。1943年3月には戦闘爆撃機型FB MkⅥの配備が行われ機関砲の他に爆弾やロケット弾などを多数装備し、地上攻撃だけでなく艦船への攻撃も行った。これ以外にも多数の型が作られ、1940年から1950年までに合計7781機が作られた。これにはカナダやオーストラリアで製造された機体も含まれている。モスキートは英連邦軍の他アメリカでも使用され、戦後はイスラエルなどでも使用されたがジェット機の登場によりやがて姿を消している。






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P-38 ライトニング
【US、KR、RS国ベースライセンス】



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P-38 ライトニングα
【P-38→α】



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P-38 ライトニングβ
【P-38→α→β】



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P-38 ライトニングγ
【P-38→α→β→γ】

高速性能と重武装を両立させるために双胴型を採用したアメリカ陸軍の戦闘機。
1930年代の後半に爆撃機の発達により高高度迎撃機が必要となり、迎撃に特化した形態として双胴型を選択したもので、武装は20mm機関砲1門と12.7mm機銃4丁がコクピット前の機首に集中して配置された。1939年1月に原型機が初飛行し、北米大陸を横断する飛行の最中に追い風ではあるが時速676kmという最高速度を記録した。1941年10月に登場したP-38Eから本格的な量産が始められ、1942年中頃から実戦に投入され始めた。対日戦に投入された時には旋回性能に優れる日本軍機に格闘戦に持ち込まれて苦戦したが、速度を生かした一撃離脱戦法を使うようになってからは立場が逆転し、双胴の悪魔と呼ばれ恐れられるようになった。
太平洋戦線では日本軍機より優速であったため、終戦まで第一線で働いている。一方ヨーロッパやアフリカでは主に爆撃機の護衛戦闘機として使用された。大戦後半にP-47やP-51など優れた新型戦闘機が配備されるとP-38は機外搭載量と長大な航続距離を生かして爆撃や対艦攻撃、偵察などに使用されるようになった。P-38は1943年4月にブーゲンビル島上空で海軍連合艦隊司令長官の山本五十六乗機を撃墜した戦果で知られる。また、1944年7月に星の王子様の作者サン =テグジュペリが撃墜された時の乗機は偵察型のF-5Bであった。P-38は合計約1万機が製造された。イギリスも1941年にP-38を発注したが、到着した機体はターボチャージャーの輸出が認められなかったため性能が落ち、後に契約は取り消されている。






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P-47 サンダーボルト
【F-16(対地) + MiG21(対地)】



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P-47 サンダーボルトα



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P-47 サンダーボルトβ



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P-47 サンダーボルトγ

R-2800ダブルワスプエンジンと排気タービンを組み合わせて高速と高高度性能を追求した巨大な単発戦闘機。重い機体は長い滑走距離を必要としたが、加速性能や急降下速度などは優れており、多少の被弾にも耐える頑丈さなどの利点もあった。武装は12.7mm機銃8丁と強力で、他に主翼下に1000ポンド爆弾2発や10発のロケット弾などを搭載可能だった。1941年5月に原型機XP-47Bが初飛行し、狙い通りの性能を発揮して制式化されたが多数のトラブルも抱えていた。1942年末には初期トラブルがほぼ解消したP-47Cがイギリスに配備され、落下式増槽を装備してP-38に代わり1943年夏から爆撃機の護衛任務に就いた。P-47Dは1943年4月から生産された型で、多数のサブタイプを持つ主生産型となった。P-47D-25型からはコクピットが後方視界の悪いレザーバック型から水滴型風防に変更されている。P-51マスタングの登場した1944年以降は搭載能力と耐弾性能を生かして地上攻撃任務に活躍している。D型以降も改良型は作られ、エンジンを換装し最高速度を上げたP-47Mや対日戦用に航続距離を大幅に伸ばしたP-47Nなどが生産されている。P-47はアメリカ戦闘機史上最高の合計19675機が完成した。






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P-51 マスタング
【サンダーボルトβ + ライトニングβ】



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P-51 マスタングα



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P-51 マスタングβ



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P-51 マスタングγ

P-51 マスタングはアメリカ空軍で第二次世界大戦中最も優秀な戦闘機と言われる機体である。元はノースアメリカン社がイギリス空軍向けに短期間で開発した機体で、1940年3月に計画が開始、原型機NA-73が初飛行を行ったのは1940年9月であった。マスタングⅠと名付けられたこの機体はアリソンエンジンを搭載して低高度で高い運動性を発揮し、対地支援任務などに活躍した。アメリカ参戦後、アメリカ空軍もこの機体を対地攻撃機A-36A アパッチとして採用し、1942年に戦闘機としてP-51Aが採用された。この時はまだP-51は平凡な機体であった。1942年4月にイギリスでマスタングⅠにマーリンエンジンを搭載してみる試みが行われた。10月に初飛行を行ったところ、当時のどの機体よりも速い最高速度と長大な航続距離を発揮し、高高度性能が飛躍的に上がった。この結果によりP-51にパッカード社が生産していたマーリンエンジンを搭載する事になり、P-51B/Cとして制式化された。P-51B/C1943年末から爆撃機の長距離護衛任務に使用された。P-51Dは12.7mm機銃を6丁に強化したもので、主翼下にロケット弾の搭載も可能である。コクピットはレザーバック型から水滴型風防に変更され、垂直尾翼の下部が前に延長された。P-51Dはノルマンディー上陸作戦から投入され、当時のドイツのどの戦闘機とも対等以上に戦う事ができた。ジェット機のMe262には速度で劣ったが、離着陸時を狙いしばしば撃墜している。大戦末期には軽量化したP-51Hが対日戦に向けて生産されたが、終戦により最終生産型となった。P-51は合計で15000機以上完成している。P-51は戦後F-51と改称され、朝鮮戦争にも投入されたが、ジェット戦闘機には対抗できず戦闘爆撃機として使われた。P-51は第二次世界大戦中にアメリカ、イギリス以外の連合国でも使われ、戦後は中南米などに広く供給された。イスラエルは中東戦争で使用している。民間にも多数が売却され、エアレース等に使用されている。






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I-16
【ベースライセンス】



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I-16α



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I-16β



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I-16γ

ソ連が第二次世界大戦前に開発した太く短い胴体の単葉戦闘機。速度を重視して軍用機としては世界で初めて完全引き込み脚を採用していた。胴体は木製のセミモノコック構造で、主翼は全金属製であった。機体の安定性が低いため操縦には難があったが、ロール速度が大きく軽快な運動性を備えていた。1932年から設計が開始され、1934年から配備が始められた。完成した当時は世界最速の戦闘機で、スペイン内戦やノモンハン事件に投入され、当時の複葉戦闘機を圧倒する活躍を見せた。しかし他国の戦闘機の進化も早く、それらの戦場で新型戦闘機が登場すると苦戦している。独ソ戦の開始時には数的にはソ連空軍の主力であったがすでに旧式化しており、Yak-1など新型の戦闘機が登場するとRS-82ロケット弾などを搭載し、主に地上支援などに使用されるようになった。
改良を続けながら1942年まで生産が続けられ、各型合計で約8000機が作られた。






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Yak-9
【イコロイ(攻撃) + ヒップH(攻撃)】



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Yak-9α



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Yak-9β



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Yak-9γ

ヤコブレフ設計局が開発したYak戦闘機シリーズの一つである。1940年に登場したYak-1は独ソ戦開始後に配備され、1942年頃にはソ連で最も優れた戦闘機として大量に生産された。Yak-1は大戦末期にはさらに小型軽量化して強力なエンジンを搭載するYak-3へと発展した。Yak-7は副座の練習機型として1941年に開発された機体であったが、構造が簡素化された分重量が軽く飛行性能が高かったため、単座の戦闘機としても生産された。Yak-9はYak-7の改良型で、燃料タンクの容量を増やすために木製の主翼に金属製の桁を使用した実験機Yak-7DIが元になっている。武装は20mm機関砲と12.7mm機関銃の組み合わせが基本となっていたが、用途により37mm機関砲なども装備する事が可能であった。1942年夏から生産を開始、10月から配備が行われ、スターリングラード攻防戦に投入されている。1943年には長距離護衛型や対戦車攻撃型など多数のバリエーションが開発された。戦後も生産は続けられ、東側諸国にも供給されて1950年代の主力戦闘機となった。戦後付けられたNATOコードネームはフランクで、これは日本の四式戦闘機疾風のコードネームと同じである。Yak-9Pは1946年から生産された機体で、機体が全金属製となり大戦末期に作られた他国の戦闘機にも対抗できる高い能力を持っていた。朝鮮戦争にも登場し、MiG-15の登場まで北朝鮮軍の主力戦闘機として戦っている。Yak-9は各型合計で16769機作られた。Yak戦闘機シリーズは大戦中に36737機が作られたと言われる。






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Il-2 シュトルモビク
【I-16β + Yak-9β】



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Il-2 シュトルモビクα



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Il-2 シュトルモビクβ



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Il-2 シュトルモビクγ

コクピットに装甲を施したソ連の主力対地攻撃機。1920年代から開発が開始された機種で、いくつかの案を経た後Il-2の原型機が1939年に初飛行を行った。胴体の前半はほぼモノコックの装甲で構成され、装甲内にコクピットとエンジン、冷却機や燃料などの重要な部分が配置されていた。胴体の後半はジュラルミンを節約するために木製であった。武装は20mm機関砲と7.62mm機銃で、機関砲は後に23mmに強化されている。また翼下にRS-132などのロケット弾を最大8発装備して対戦車攻撃に用いた。また爆弾槽に小型の成型炸薬爆弾PTABを多数搭載し、敵部隊の上で撒き散らす戦法も採っている。Il-2は重量が大きいため運動性は良くなかったが極めて頑丈で、被弾してもなかなか墜落しない事で乗員からは信頼され、ドイツの兵士は空飛ぶ戦車や黒死病(ペスト)などと呼び恐れていた。初期の機体は重量を減らすために単座であったが、このため後方が弱点となり戦闘機の攻撃による損失が問題になった。1942年に後部銃手席を追加した副座型が生産されたが、重量増加により飛行性能が悪化している。1943年にはエンジンを強化したIl-2Mが生産された。しかし後部銃手席は装甲が不完全で、1944年以降に生産された最終型まで改善されなかった。Il-2は1941年から1945年までに軍用機として最多の36183機が製造された。独ソ戦の全期間を主力攻撃機として戦い、戦後は東側の国にも供給されている。Il-2は最も有名なソ連軍機で、ロシア語で襲撃機を意味するシュトルモビクが当機の代名詞となっている。






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飛燕
【JP、CN、EU国ベースライセンス】



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飛燕α



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飛燕β



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飛燕γ

太平洋戦争で日本が唯一使用した液冷戦闘機で、エンジンにはドイツのDB601をライセンス生産したハ40を採用している。飛燕は軽戦闘機と重戦闘機の区分から脱却した理想的な戦闘機を目指して1940年から開発が行われた。試作機のキ61は、やはりDB601を搭載し重戦闘機に分類されるキ60に遅れて完成したが、キ60が機動性の不足で採用されなかったのに対し、キ61はこれを上回る速度と格闘戦性能を見せた。特に最高速度は当時の日本戦闘機より遥かに速い590km/hを記録している。キ61は1943年10月に三式戦闘機として制式採用された。三式戦闘機ははドイツのBf109と同系統のエンジンを使用し、キャノピーやコクピット後部の形状などが似たシルエットとなっていたため和製メッサーと呼ばれる事もある。なお1944年末頃に生産された機体からキャノピーは涙滴状となっている。1942年8月にキ61の最初の量産機が完成し、配備された部隊は1943年4月にラバウルへと送られた。しかし日本では液冷エンジンを使用した例が少なく、生産や整備などには困難が生じた。特に前線では十分な整備を受ける事が困難だったため性能が低下し、空冷戦闘機を求める声も出たと言う。日本本土空襲が始まると飛燕も迎撃にあたっている。本土防空に配備されていた機体の中では高空性能が高かったのだが、それでも高高度を飛行するB-29に対抗するには性能が不足していたため、震天制空隊と呼ばれた部隊が編成され、軽量化した機体を用いて体当たり攻撃を行った。1944年9月からはハ140を搭載した飛燕二型の量産が開始されたが、ハ140は無理に出力を強化したため生産が進まず、飛燕二型の完成した機体は100機前後にとどまり、工場にエンジンの取り付けられていない首無しの機体が200機以上並ぶ事態になってしまった。そこで10月に急遽空冷のハ112を搭載した機体の制作を行い、1945年2月には試作機が初飛行を行った。この機体は最高速度こそ飛燕二型より遅くなったが、上昇性能や運動性は向上し極めてバランスの良い戦闘機となり、ただちに五式戦闘機として制式化されて本土防空に活躍した。しかし工場への空襲によって生産は落ち込み、約390機生産されたところで終戦を迎えている。






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紫電改
【F-4対地 + Su24対地】



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紫電改α



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紫電改β



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紫電改γ

紫電改は水上戦闘機強風を陸上機とした紫電を再設計した戦闘機である。紫電二一型が制式名称だが、紫電改の呼び方が一般化している。強風は日本海軍が南太平洋の島々で活用するために1940年から開発していた機体で、フロートが付く事による不利をカバーするために層流翼や自動空戦フラップを採用して高い運動性を確保しようとしていた。しかし開発は難航し、1943年12月に制式採用されたが既に水上戦闘機が活躍する場は無く、97機が製造されて琵琶湖などに配備され、防空任務に就いた。なお南方では強風の代わりに零戦を元に作られた二式水上戦闘機が活躍している。紫電は1941年末に提案された局地戦闘機で、強風のフロートを外して引き込み脚を取り付け、エンジンを誉に換装したものであった。武装は20mm機関砲4門と日本の戦闘機としては強力で、強風から引き継いだ自動空戦フラップなどにより高い運動性を持っていた。しかし主翼位置が胴体中央と高いため主脚が伸縮式の複雑で脆いものとなり、前下方の視界が悪い事もあって離着陸時に事故が起きやすい欠点もあった。また初期の誉エンジンも不調で、自動空戦フラップなどにも問題も残されている未完成な機体であった。だが海軍は高性能な機体を必要としていたためこれらの問題は生産中に解決を図るものとして1943年7月に紫電一一型として制式化し、8月から量産を開始した。紫電の試験と並行して各種の問題を根本的に解決するために主翼配置などの設計を改めた機体の開発が開始された。試作機は1943年12月に完成し、1944年1月からテストが行われた。紫電改は低翼配置となった事で主脚の問題は解消し、また胴体形状を見直す事で離着陸時の前下方視界も改善している。自動空戦フラップは改良され、零戦で弱点となっていた防弾性を向上するために燃料タンクに防弾装置や自動消火装置を備えている。試験の結果は極めて良好で、1944年4月には紫電改は零戦に代わる主力戦闘機として大量生産が行われる事になり、紫電が約1000機生産されたところで紫電改の生産へと切り替えられた。1945年1月に紫電二一型として制式化されたが、空襲などの影響により紫電改は約400機の生産にとどまっている。しかし実戦では松山の第三四三海軍航空隊に配備された紫電改が大きな戦果を挙げた。紫電改は艦上型も試作されて空母信濃で着艦実験を行っている。






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疾風
【飛燕β + 紫電改β】



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疾風α



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疾風β



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疾風γ

四式戦闘機疾風は陸軍の戦闘機の集大成と言える機体である。エンジンは海軍の誉とほぼ同型のハ45を搭載し、680km/hを超す最高速度を目指していた。武装は翼内に20mm機関砲2門、機首に12.7mm機関砲2門を搭載していた。機首の機関砲は生産末期には20mm機関砲に変更されている。防弾性も強化され、操縦席は防弾ガラスや防弾鋼板で守られた。1943年3月に試作機が完成し、エンジンやプロペラに問題があったものの高い性能を発揮している。1944年4月に制式採用され、大東亜決戦機として陸軍の期待を背負いながら本格的な量産が開始された。1944年春から増加試作型が実戦テストを兼ねて中国大陸にいち早く配備され、秋には多数の疾風がフィリピンやビルマに配備された。これらの機体はP-51 マスタングなどのアメリカ軍新型機と互角以上の戦いを繰り広げ、アメリカ軍からも恐れられた。しかし大戦末期にはエンジンや燃料、各部品の品質低下や行員の不足による工作技術の低下などで計画通りの性能を発揮できる機体は少なく、最高速度の公称値は624km/hとされたが、それでも太平洋戦争で日本が実用化した戦闘機の中で最速であった。戦後アメリカ軍が行ったテストでは燃料やエンジンプラグなどに高品質の物を使用した結果、最高速度689km/hを記録し、日本の最優秀戦闘機と評されている。四式戦闘機疾風は終戦までに約3500機が生産された。






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ネバダ
【US、KR国ベースライセンス】



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ネバダα
【ネバダ→ネバダα】



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ネバダβ
【ネバダ→ネバダα→ネバダβ】



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ネバダγ(SP)
【ネバダ→ネバダα→ネバダβ→ネバダγ(SP)】

1911年に計画されたアメリカ海軍の戦艦。
アメリカで初めて3連装砲塔や高射砲、1本煙突を採用し、燃料は重油へと切り替えられた。また重要区画に集中防御を施すなど新世代の標準型戦艦として設計された。主砲の356mm砲10門は船体前後に背負い式に配置された3連装砲塔と2連装砲塔に装備している。ネバダとオクラホマの2隻が建造され、ネバダは蒸気タービン、オクラホマは3段膨張蒸気機関を搭載していた。1930年代に2艦ともに近代化改装を受け、アメリカ戦艦の特徴だった篭マストを三脚楼に変更している。1941年12月の真珠湾攻撃時に2艦とも雷撃を受けて沈没したが、被害の小さかったネバダは艦容を一新する大改装を受けて戦線に復帰、上陸作戦の支援などに活躍した。






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ペンシルベニア
【カマン + オーサ】



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ペンシルベニアα
【ペンシルベニア→ペンシルベニアα】



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ペンシルベニアβ
【ペンシルベニア→ペンシルベニアα→ペンシルベニアβ】



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ペンシルベニアγ【SP】
【ペンシルベニア→ペンシルベニアα→ペンシルベニアβ→ペンシルベニアγ】

ネバダの拡大改良型。ネバダ級と同じ標準型戦艦に位置づけられる。
主砲はネバダと同径だが主砲塔が全て3連装になり、船体長と排水量が増加した。1912年と13年(アリゾナ)に1隻ずつ計画され、ネバダ級と4隻揃って1916年に就役した。1930年代に近代化改修を受け、真珠湾攻撃時に2艦ともに損害を受けた。ペンシルベニアは当時ドックに入っていたため比較的被害が小さく、サンフランシスコに自力で航行して修理を受けた。1942年には艦容を変える大規模な近代化改修を受け、終戦まで太平洋戦線で上陸支援などに活躍している。一方アリゾナは弾薬庫が誘爆したため修理不可能と判断され、記念艦として真珠湾に残されている。






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コロラド

【ネバダβ+ペンシルベニアβ】




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コロラドα
【コロラド→コロラドα】



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コロラドβ
【コロラド→コロラドα→コロラドβ】



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コロラドγ[SP]
【コロラド→コロラドα→コロラドβ→コロラドγ】

アメリカの標準型戦艦として建造された最後の型。
テネシーの改良型で、設計に大きな違いは無いが主砲に406mm砲を採用し、2連装砲塔4基8門を装備している。第一次大戦中の1916年に計画されたが戦争には間に合わず、1921年になって2番艦メリーランドが最初に就役した。その後行われたワシントン海軍軍縮条約により3番艦ワシントンが建造を中止し、1923年にコロラドと4番艦ウェストバージニアが就役している。機関はテネシー級で採用されたターボ・エレクトリック推進を採用し、装甲もテネシー同様に強化され、テネシー級2隻と合わせてビッグファイブと呼ばれていた。これらの艦は開戦時まで大きな改修を受ける事は無く、特徴的な篭マストを残したまま開戦を迎えた。真珠湾攻撃で沈没したウェストバージニアはその後引き上げられ、テネシー級2隻とともに艦容を一新する改修を受けたが、損害の小さかったメリーランドと真珠湾を離れていたコロラドは改修後も艦容を大きく変えることなく、ともに前の篭マストを残したまま終戦を迎えている。






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クイーン・エリザベス
【ベースライセンス】



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クイーン・エリザベスα
【エリザベス→エリザベスα】


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クイーン・エリザベスβ
【エリザベス→エリザベスα→エリザベスβ】



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クイーン・エリザベスγ
【エリザベス→エリザベスα→エリザベスβ→エリザベスγ】

第一次大戦までに作られたイギリス戦艦の集大成といえる艦。
主砲には新開発の15インチ砲を採用、それまでの超ド級戦艦で5基あった主砲塔を4基とし、空いたスペースで機関を増やして高速戦艦として完成した。合計5隻が完成し、第一次世界大戦ではユトランド沖海戦に参加してドイツ巡洋戦艦を相手に活躍している。海軍軍縮条約後もイギリス海軍の主力として全艦在籍し、近代化改装を行った艦は艦容を大きく変えている。第二次世界大戦では大西洋・太平洋両方面で活躍し、3番艦のバーラムが地中海でU-331の雷撃を受け沈没したが、他の4隻は戦後まで生き残っている。







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ネルソン
【旅大+はつゆき】



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ネルソンα
【ネルソン → ネルソンα】



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ネルソンβ
【ネルソン → ネルソンα → ネルソンβ】



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ネルソンγ[SP]
【ネルソン → ネルソンα → ネルソンβ → ネルソンγ】

ワシントン海軍軍縮条約で日本が戦艦陸奥の保有を主張したため、この代わりにアメリカとイギリスも16インチ砲を搭載した戦艦の保有が認められた。ネルソン級はこの条約に基づいて建造された戦艦で、基準排水量を35000tに制限された船体に16インチ砲を搭載し、攻撃力と防御力を充実させるために3連装の主砲塔3基を船体の前部に集中させ、防護区画を短くして重量を抑えてある。一方機関は小型にせざるを得ず、速力は23ノットに抑えられた。また実際に使用してみると特異な配置により主砲の射界が制限された上、発砲の衝撃波により艦橋部が損傷するなど非常に問題点が多いものであった。第二次世界大戦では大西洋、地中海方面で船団護衛や上陸支援などの作戦に参加し、二番艦のロドニーはビスマルク追撃戦にも参加している。






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キングジョージⅤ世
【エリザベスβ+ネルソンβ】



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キングジョージⅤ世α
【キングジョージⅤ世 → α】



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キングジョージⅤ世β
【キングジョージⅤ世 → α → β】



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キングジョージⅤ世γ[SP]
【キングジョージⅤ世 → α → β → γ】

第二次ロンドン海軍軍縮条約に基づいて建造された新型戦艦。
主砲には14インチ砲を採用し、4連装砲塔を3基搭載する予定だったが重量軽減のために1基を連装砲塔とし、計10門を装備している。しかし同時期の各国の新型戦艦が15インチ以上の砲を採用したため見劣りするものとなった。副砲は新型の5.25インチ両用砲となったが装填が手動であったため発射速度は遅く、効果的に対空射撃を行う事が出来なかった。1940年から42年までに5隻が竣工している。2番艦のプリンス・オブ・ウェールズは1番艦キング・ジョージⅤ世とともにビスマルク追撃作戦に参加した後、東洋艦隊の旗艦としてシンガポールに派遣されたが、太平洋戦争開戦直後の1941年12月10日、マレー沖海戦で僚艦レパルスと共に日本海軍の陸上攻撃機によって沈められ、作戦行動中に航空攻撃で沈められた最初の戦艦となった。






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ドイッチュラント
【EU・ME・JP国ベースライセンス】



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ドイッチュラントα
【ドイッチュラント→ドイッチュラントα】



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ドイッチュラントβ
【ドイッチュラント→ドイッチュラントα→ドイッチュラントβ】



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ドイッチュラントγ[SP]
【ドイッチュラント→ドイッチュラントα→ドイッチュラントβ→ドイッチュラントγ】

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によって軍備制限が課せられていたドイツ海軍が旧式戦艦の代替艦として建造した装甲艦。
一番艦ドイッチュラントは1929年に建造が開始された。排水量10000t、備砲は28cm以下の制限があったため重量軽減のために船体の組み立てには電気溶接が使われ、ディーゼル機関を採用して機関重量を減らしてある。主砲は28cm三連装砲塔を前後に装備している。排水量は船体のみの状態で10600tであったが、二番艦のアドミラル・シェーアは11550t、三番艦のアドミラル・グラーフ・シュペーは12340tと増えており、公式発表は10000tであったが基準排水量では条約の制限を大きく超過していた。速力は最大26ノットと当時の戦艦より速く、戦艦との戦闘を回避する事を想定していた。1933年に完成した艦はポケット戦艦と呼ばれ、他国の海軍にも影響を与えた。なおドイッチュラント級は1939年に艦種を装甲艦から大巡洋艦へ変更している。
アドミラル・シェーアは1934年に就役し、ドイッチュラントとともにスペイン内戦に派遣された。アドミラル・グラーフ・シュペーは1936年に就役した。第二次世界大戦の勃発とともにドイッチュラントとアドミラル・グラーフ・シュペーは通商破壊作戦に従事、大西洋で活動していたが、アドミラル・グラーフ・シュペーは1939年末のラプラタ沖海戦の後ドイツへの帰還が不可能となり、ウルグアイのモンテビデオ港外で自沈した。これを受けて1940年2月、ドイツの名を冠するドイッチュラントは喪失時の心理的ダメージを恐れリュッツォウへと改称する。リュッツォウはこの後ノルウェー侵攻や船団攻撃などに従事していたが、ソ連軍の攻勢が始まってからは陸上支援砲撃などを行い、1945年4月にスヴィネミュンデで爆撃を受け着底、5月4日に自沈した。アドミラル・シェーアは改装を受けた後北海などで船団攻撃などに従事、1940年11月には仮装巡洋艦ジャーヴィス・ベイを撃沈している。その後はリュッツォウと同様の活動を行い、1945年4月に造船所内で爆撃を受け沈没した。リュッツォウは戦後ソ連軍が引き揚げ海軍に編入されたが、すぐにスクラップとされている。アドミラル・シェーアはその場で解体された。
アドミラル・グラーフ・シュペーは現在引き揚げが計画されており、これまでに測距儀や艦尾の紋章が引き揚げられた。






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シャルンホルスト
【ノックス + 蔚山】



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シャルンホルストα
【シャルンホルスト→シャルンホルストα】



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シャルンホルストβ
【シャルンホルスト→シャルンホルストα→シャルンホルストβ】

1933年に計画されたドイッチュラント級装甲艦に次ぐ主力艦である。
ドイッチュラントの拡大型として主砲はそのままに速力と防護力を強化した排水量18000tの装甲艦を予定していたが、フランスが建造中のダンケルク級に対抗するために設計を見直し、第一次大戦中に計画されていたマッケンゼン級巡洋戦艦をタイプシップとする、より大型の戦艦となった。公表された排水量は26000tであったが、実際には基準排水量は31800tとなっている。機関は蒸気タービンで速力は最大31ノットとなった。主砲は38cm砲6門の搭載を検討していたが38cm砲はまだ未完成であったため、建造期間を短縮するために長砲身化した28cm砲9門とされた。
1935年にドイツは再軍備宣言を行い、シャルンホルスト級の建造も本格的に開始された。竣工は二番艦のグナイゼナウが1938年5月、シャルンホルストは1939年1月だが、グナイゼナウの公試中に艦首の形状に問題がある事がわかり、すぐに凌波性を高めるための改修を行った。しかし数度の改修にも関わらず根本的な解決は出来ず、最前部のA砲塔は波を被るため故障気味であった。シャルンホルストとグナイゼナウは行動を共にする事が多く、1940年のノルウェー侵攻にもそろって参加している。6月にはイギリスの空母グローリアスと駆逐艦2隻を撃沈するが、シャルンホルストも損傷を受け、グナイゼナウも後に潜水艦の攻撃を受けた。1941年に通商破壊を行った後共にフランスのブレストに入港、ここでイギリス軍機の攻撃を受けたため1942年2月にドーバー海峡を突破、共に触雷しながらドイツへと帰国した。
しかしキールでの修理中にイギリス軍が爆撃を行い、グナイゼナウは弾薬に引火、大破着底してしまった。グナイゼナウはポーランドのグディニャ(ゴーテンハーフェン)に回航され、1942年7月に修理のために一旦除籍、A砲塔が完全に破壊されていたこともあり修理と共に主砲を38cm砲に換装する予定であったが、ヒトラーの命令により修理は中止された。その後1943年1月に備砲が降ろされ陸上に転用、1945年3月に閉塞船としてグディニャ港の入口に自沈し、戦後スクラップになっている。
一方シャルンホルストは爆撃で被害を受けず、8月に修理を完了して1943年には戦闘可能な状態となり、3月にノルウェーのナルヴィクで戦艦ティルピッツなどと合流しイギリス海軍をけん制している。しかし1943年9月にイギリスの小型潜水艇Xクラフトの攻撃によりティルピッツが損傷するとソ連向け船団の活動が再開し、シャルンホルストは1943年12月に船団攻撃に出撃して護衛艦隊と交戦、重巡洋艦ノーフォークに損傷を与えたが戦艦デューク・オブ・ヨークの砲撃により手傷を負い、英艦隊の攻撃で沈没した。






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ビスマルク
【ドイッチュラントβ + シャルンホルストβ】




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ビスマルクγ
【ビスマルク→α→β→γ】

シャルンホルスト級に次いで建造されたドイツの戦艦である。
1935年5月にイギリスと結んだ海軍協定に基づき建造されたもので、第一次世界大戦中に建造されたバイエルン級をタイプシップとした大型の艦となった。排水量は公称35000tであったが、実際には基準排水量は41700tで、当時最大だった巡洋戦艦フッドを超えている。主砲はシャルンホルスト級でも予定していた38cm砲で、連装砲塔を4基8門装備している。ビスマルクは特に船体の幅が広く、主砲の安定した射撃が可能であった。ドイツではビスマルク級に次いでさらに大型の戦艦H(ドイッチュラントをAとする通し名称、ビスマルクは戦艦F)の建造を予定していたが、開戦時期が早まったために建造は中止、ビスマルク級はドイツ最後の戦艦となった。
ビスマルクは1940年8月に竣工後バルト海で慣熟訓練を行い、通商破壊作戦に参加するため1941年5月にポーランドのグディニャ(ゴーテンハーフェン)を出港した。5月24日、アイスランドの北からデンマーク海峡を抜けて大西洋を目指す途中で待ち伏せていたイギリス艦隊と交戦、フッドを撃沈し新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズに損傷を与えたが、空母の艦載機による攻撃で航行困難となる損傷を受け、26日の夜から翌朝にかけてのイギリス艦隊の攻撃で沈没した。なお1989年にビスマルクの船体が発見されている。ティルピッツは1941年2月に竣工し、1942年にはノルウェーに派遣され船団攻撃に従事している。1943年9月にはシャルンホルストと共にスピッツベルゲン島に艦砲射撃を行った。ティルピッツはイギリス軍にとって特に脅威であったためスピッツベルゲン島からアルタフィヨルドに帰投した9月末に小型潜水艇Xクラフトで攻撃を仕掛けた。出撃した10隻のXクラフトの内2隻が攻撃に成功し、砲塔などに重大な損傷を与えている。この修理は1944年4月までかかり、4月3日には出港する予定であったが、暗号を解析したイギリス軍は艦隊を派遣して同日早朝に爆撃、再び損傷を与えた。9月にはトールボーイと呼ばれる巨大な12000ポンド爆弾をランカスター爆撃機に搭載して攻撃、艦首に大穴を開けティルピッツは航行不能となった。このため10月にトロムセへと回航されて浮き砲台として使用する準備をしていたが、11月にふたたびランカスターによる攻撃が行われ、トールボーイ3発の直撃と11発の至近弾を受けて転覆、沈没した。






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扶桑
【JP、KR、CN国ベースライセンス】



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扶桑α
【扶桑→α】



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扶桑β
【扶桑→α→β】



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扶桑γ
【扶桑→α→β→γ】

金剛型に続いて建造された戦艦。
イギリスで設計された金剛型の建造で得られた技術を基に国内で設計されており、初の純国産超弩級戦艦である。全長は金剛より短いが全幅は広く排水量も増加しており、1915年11月に扶桑が竣工した当時は世界最大の戦艦であった。金剛は36cm連装砲4基であったが、扶桑は36cm連装砲6基を搭載しており、火力は大幅に増強されている。だが主砲塔が艦のほぼ全体に分散して配置されたため、弾薬や機関も分散して配置された事で防御上の問題となり、また後の機関の改良にも制約となっている。さらに主砲の一斉射撃を行うと爆炎、爆風の影響が大きく次弾の照準を妨げ、船体に歪みを生じるなどの欠陥も見つかった。扶桑型は4隻建造される予定であったが、扶桑と山城の建造に時間がかかった事もあって同型艦として予定されていた伊勢、日向は設計を改めて3、4番砲塔をまとめて配置するなどの改良を施した伊勢型として建造された。扶桑には二度の近代化改修が加えられ、主砲の射程を延長し、装甲や高角砲の増強を行った。改修後の扶桑型は主砲発射時の爆風を避けるために艦橋構造物が上に延長され、極端に高いシルエットとなっている。速度が遅い事もあり空母艦隊の護衛に就けず、大戦中には二線級と位置づけられ、大きな任務に就く事はなかった。1944年10月のレイテ沖海戦では西村艦隊に配属されスリガオ海峡を目指したが、アメリカ艦隊の待ち伏せに合い集中砲火を受け、2隻とも沈んでいる。






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長門
【ラファイエット + ロメオ】



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長門α



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長門β



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長門γ

日露戦争後にアメリカを仮想敵国として計画された八八艦隊の最初の艦として建造された戦艦。長門は1920年に竣工し、世界で初めて16インチ級の砲を搭載した戦艦であった。二番艦の陸奥は1921年10月に竣工したとされるが、これは1921年11月に始められたワシントン会議で未完成の戦艦を全て廃棄する事が求められたために未完成のまま引き渡されたと言われる。なおワシントン海軍軍縮条約ではアメリカ、イギリスが長門に対抗できる16インチ砲搭載戦艦を建造する事が認められ、また戦艦の保有数が制限されたので八八艦隊の残りの戦艦は建造されなかった。主砲の41cm連装砲は建造当時最大の火力を有していた。また、当初秘匿とされた速力は26.5ノットで他国の戦艦を大きく上回る高速戦艦であった。長門と陸奥は大和が登場するまでの間連合艦隊の旗艦として使用された。建造当時は二本の煙突が直立していたが、完成後すぐに排煙が問題となり前の煙突を屈曲させる改修を受けた。1930年代の近代化改修後はボイラーの交換に伴い後部の煙突を太い物に交換し、前部の煙突は廃止されている。開戦時には長門は連合艦隊の旗艦として陸奥と共にハワイ沖に進出、その後大和に旗艦を移し、1942年6月のミッドウェー海戦にも参加しているが、いずれも戦闘は行っていない。1943年6月に陸奥が爆発事故を起こし沈没、長門はレイテ沖海戦で損傷を受けたが日本へと帰国し、アメリカ空母艦載機の攻撃を受けるが終戦まで生き残った。その後8月30日に戦利艦として米軍に譲渡され、ビキニ環礁での原爆実験で標的艦として使用された。






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大和
【扶桑 + 長門】



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大和α



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大和β



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大和γ

ロンドン海軍軍縮条約を脱退した日本が建造した世界最大の戦艦。アメリカ海軍戦艦の数的な優位に対抗するために世界に例の無かった46cm砲を主砲として搭載した。主砲は艦型を小さくまとめるために三連装砲塔に三基搭載し、上部構造物もそれまでの戦艦より短くまとめてある。これにより防護区画も小さくなり、装甲厚を増やす事が可能となった。副武装は上部構造物の前後と左右に最上型軽巡洋艦から流用した15cm砲塔を装備していたが、左右の物は改修時に撤去され、高角砲と機銃に換えられている。この他にも船体にはバルバスバウや、多数の水密区画、自動注水装置による緊急時の傾斜調整機能などの新技術、新構想が盛り込まれていた。大和型の建造は極秘に行われ、国民にも存在すら明かされなかった。アメリカも大和について正確な情報を得たのは戦後の調査の後であった。しかし皮肉な事に真珠湾攻撃の成功によって海戦の主役は戦艦から航空母艦へと移っており、また喪失を恐れた事もあって大和型が実戦で真価を発揮する事は無かった。大和は真珠湾攻撃直後の1941年12月16日に就役した。同型艦の武蔵は1942年8月に就役したが、信濃は開戦により工事が中断し、ミッドウェー海戦で喪失した空母戦力を補うために空母へと改装された。四番艦は進水に至らず解体されている。1944年、対空兵装の強化を行った大和と武蔵はマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦に参加した。武蔵は1944年10月24日にレイテ沖海戦で、大和は1945年4月7日に沖縄に向かう途中を狙われ、共に航空攻撃により沈没した。






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カイオ・ドゥイリオ
【ベースライセンス】



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カイオ・ドゥイリオα



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カイオ・ドゥイリオβ



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カイオ・ドゥイリオγ

第一次世界大戦前に建造されたド級戦艦。コンテ・ディ・カブール級の改良型で、1912年に2隻建造を開始し、1915年と1916年に竣工した。主砲は30.5cm砲を三連装砲塔3基と連装砲塔2基、計13門を装備していた。第一次世界大戦後は小規模な改良が行われた程度で、1932年には予備艦とされたが、フランスが新型戦艦を建造した事で対抗してヴィットリオ・ヴェネト級を建造するとともにカブール級とカイオ・ドゥイリオ級に大規模な改装を施して対抗する事となった。30.5cmの主砲は内筒を削り32cm砲となり、仰角の引き上げで射程も伸びている。船体中央にあった主砲塔は撤去された。副武装も近代化され、13.5cm砲12門と9cm高角砲10門を装備した。艦橋構造も変化し、三脚式から円筒形へと変化している。また速力を増すために機関を交換し、艦首の延長などを行った結果、艦様は一新してヴェネト級に似たものとなった。第二次世界大戦では二隻とも大きな損傷を受ける事も無く、地中海で作戦活動に就いている。1942年からは燃料の不足によりタラント港で練習艦として使用されたが、イタリア本土での戦いが始まってからは地上支援に使用された。第二次世界大戦後は再度イタリア海軍に配備され、旗艦任務などを務めながら1950年代まで使用されている。






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ヴィットリオ・ヴェネト
【広開土大王 + 江衛】



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ヴィットリオ・ヴェネトα




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ヴィットリオ・ヴェネトβ



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ヴィットリオ・ヴェネトγ

第一次世界大戦後にイタリアが建造した超ド級戦艦。ワシントン海軍軍縮条約で規定された旧式戦艦の代艦として1934年から2隻建造され、1938年にはさらに2隻の建造が開始された。主砲は38.1cm砲となり、三連装砲3基に装備していた。最大速力は31.5ノットと高速だったが、地中海での活動を前提としていたために他の戦艦に比べると航続距離が短いという欠点もあった。1番艦ヴィットリオ・ヴェネトは1940年4月、2番艦リットリオは5月に完成し、共に地中海で作戦に従事した。1943年7月に2番艦リットリオはイタリアへと艦名を変更している。4番艦ローマは1942年6月に完成したが、すでに戦況は悪化し、燃料も乏しかったために作戦行動に出る事はなく、連合国の爆撃機による攻撃を受けていた。1943年9月のイタリア降伏後、3隻のヴェネト級を含むイタリア艦隊は連合国へ降伏しマルタへと向かったが、移動中にドイツのDo 217爆撃機の搭載する誘導爆弾フリッツXによる攻撃を受け、4番艦ローマは沈没、2番艦イタリアは損傷を受けた。3番艦のインペロは1939年2月に進水したが、工事が遅れイタリア降伏までに完成せず、ドイツ軍に接収され標的艦として使用された後、1945年2月に連合国の空襲で沈没した。ヴェネト級はローマを除きいずれも1948年からスクラップにされている。






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アデュア
【カイオ・ドゥイリオβ + ヴィットリオ・ヴェネトβ】



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アデュアα



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アデュアβ



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アデュアγ

第二次世界大戦でイタリアが多用した600型沿岸潜水艦の一つ。600型潜水艦は1932年に完成したアルゴナウタ級を始めとする沿岸潜水艦のシリーズで、アルゴナウタの基準排水量が600t台であった事から600型と呼ばれた。600型は主に地中海で作戦に従事し、一部は人間魚雷(操縦装置をつけた魚雷に潜水士が乗りこみ、敵の艦艇に爆薬をしかける)搭載艦へと改造された。このうちアデュア級のシレはアレクサンドリア港攻撃でイギリス戦艦ヴァリアントを大破させるなどの戦果をあげている。600型はアルゴナウタ級が7隻、次のシレナ級が12隻、ペルラ級が10隻建造され、ほぼ同型のアデュア級が1936年から1938年にかけて17隻建造された。アデュア級は他に3隻がブラジル向けに建造されている。開戦後にアデュアより大型化したアッチアイーオ級が13隻建造されている。600型は合計59隻のうち48隻が戦争中に失われた。生き残った艦は賠償艦として連合国に引き渡されたが、再度イタリア海軍に配備された艦もある。






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ノースカロライナ
【US、CN、KR国ベースライセンス】



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ノースカロライナα



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ノースカロライナβ



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ノースカロライナγ

ワシントン海軍軍縮条約の失効後に建造されたアメリカ最初の新戦艦。主砲は第二次ロンドン軍縮会議に基づいて14インチ砲を4連装砲塔3基に搭載する予定であったが、日本が建造中の大和型の主砲口径を明らかにしなかったためこれを16インチと判断し、対抗するために16インチ砲の3連装砲塔を搭載することとなった。しかし防御力は対14インチ砲を想定したままであった。副砲は両用砲のみとし、12.7cm連装砲塔を合計10基搭載している。他に対空防御用に28mm4連装機関砲などが装備されたが、戦時中に強化され、最終的に40mm4連装機関砲15基と多数の20㎜機関砲が搭載された。機関出力は大きく増強され、最大速力は28ノットと巡洋戦艦並みの速力を発揮した。設計はそれまでの戦艦より先進的で、それまでのアメリカ戦艦特有の篭マストから円柱型に変更された。またレーダーなどを組み合わせて先進的な射撃統制を行う事が可能であった。1937年にノースカロライナ、1938年に二番艦のワシントンが建造を開始した。ノースカロライナは1941年4月に就役し、1942年6月に太平洋に移動した。その後数度の損傷を受けながら終戦まで機動部隊の護衛や上陸作戦の支援、日本本土の砲撃などを行っている。ワシントンは1941年5月に就役し、1942年初期に大西洋でイギリス艦隊と行動を共にした後、8月末に太平洋に移動した。11月14日の第三次ソロモン海戦ではサウスダコタと共にガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃しようとした戦艦霧島を中心とする日本の艦隊を待ち伏せし、霧島と砲戦を行って撃沈している。その後は機動部隊の護衛や沖縄への砲撃などに参加している。共に1947年に退役し、ワシントンは解体されたが、ノースカロライナは現在も記念艦として保存、展示されている。






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ガトー
【Type42 マンチェスター + アル・ヴァンド】



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ガトーα



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ガトーβ



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ガトーγ

第二次世界大戦の勃発によりアメリカ海軍も戦力増強を考え、1940年7月に潜水艦を大量に生産する計画を立てた。最初に就役したのはドラムで、太平洋戦争のはじまる直前の1941年11月1日に就役、ネームシップのガトーは1941年12月31日に就役した。1943年までにガトー級は合計73隻就役している。ガトー級は潜航深度をタンバーの級76mから90mに増大させているが、基本的な構造はタンバー級とほぼ同一であった。しかし戦訓による改良を受け、司令塔の形状や武装が変更された。水中抵抗を少なくするために大型の覆いを付けていた司令塔は、浮上中に発見されにくいよう後期の艦では小型化された。浮上中に使用する砲は排水量を減らすために小型の76mm砲を司令塔の後に搭載していたが、威力が不足していたため後に127mm砲を搭載するようになり、一部の艦は司令塔の前後に127mm砲を2門搭載していた。また対空用の機関砲も小型化した司令塔の前後に搭載されるようになった。魚雷発射管は前方に6門と後方に4門で、予備も含めて24発の魚雷を搭載していた。ガトー級は主に太平洋で活動し、特に通商破壊は対日戦の勝利に非常に大きな役割を果たしている。また艦隊戦でも活躍し、1944年6月のマリアナ沖海戦でアルバコアが空母大鳳、カヴァラが空母翔鶴を撃沈する戦果を挙げた。戦後は試験などに使用された他、西側各国にも供与された。ミンゴは1955年に日本に引き渡され、海上自衛隊最初の潜水艦くろしおとなった。






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バラオ
【ノースカロライナβ + ガトーβ】



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バラオα



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バラオβ



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バラオγ

ガトー級潜水艦を改良した潜水艦。見た目は後期のガトー級からあまり変化が無いが、内殻に新しく開発された高張力鋼を使用する事で安全潜航深度がガトー級の90mから120mに増大しており、最大潜航深度は試験では187m、実戦ではそれを超える深さにまで達している。バラオ級は1942年度から建造が開始され、1943年の夏から順次実戦に投入された。1943年9月に就役したアーチャーフィッシュは翌44年11月29日に日本の空母信濃を魚雷攻撃し撃沈している。1946年までに合計128隻がバラオ級として完成し、11隻を喪失している。また戦後46隻が他国に供与された。ガトー級、バラオ級に続き内部構造を改めたテンチ級も建造されたが、大戦終結が近かったために完成したのは29隻にとどまり、多数がキャンセルされた。戦後は水中高速化を図るGUPPY改修(Greater Underwater Propulsive Power Program:潜水艦推力増強計画)を受けた艦も多い。これはドイツのXXI型潜水艦に影響を受けたもので、ガトー、バラオ、テンチ級の艦隊潜水艦を水中高速潜水艦へと生まれ変わらせるものである。水中での抵抗を減少させるために艦首の形状を変更し、艦砲を含めた船体外部の突起物を取り払い、司令塔を流線形のカバー(セイルと呼ばれる)で覆ってある。また船体内の配置を変更し、予備魚雷の数を減らす代わりにバッテリーを増やしてある。1947年に2隻のテンチ級がGUPPY I改修を受け、その後多数の潜水艦が改修を受けた。GUPPY改修は時期により実施内容が異なり、ソナー等の近代化改修も含まれていた。1960年代に9隻の潜水艦を対象に行われたGUPPY IIIではセイルは現代の潜水艦に似た大型のものへと変化した。GUPPY II改修を受けたタスクは1973年に中華民国に引き渡され、バラオ級で最後まで現役に留まった艦となった。








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